クラシックカメラの物語

クラシックカメラ撮影日記 レチナ賛歌 孤独なライカ クラシックカメラの残照 35mmの二眼レフ 一眼レフの誕生

一眼レフの誕生と発展    
 KineExakta ExaktaVX  ContaxS Praktina Contaflex Retinareflex Asahiflex MirandaS
Nikon F PentaxSV MirandaDR KonicaFP PentaxSP Canon Pellix Minoltaα7000

デジタル時代になって、高級カメラはほとんどが一眼レフになってしまった。そもそも一眼レフは、カメラのもっとも古いタイプのひとつで、カメラが発明された時から存在した。カメラオブスキュラと呼ばれた暗箱で、画家が風景のデッサンをするのに使った道具が、カメラの源であると言われている。下の図を見ればおわかりのように、これは一眼レフそのものである。

camera obscura (Wikipediaより)

世界で最初に35mm判のカメラに一眼レフを応用したのは、1936年発売のイハゲー社(独)のキネ・エクサクタだと言われている。ソ連のスポルトが早いという説もあるが、量産モデルとしてはキネ・エクサクタだとして間違いは無かろうと思う。

Kine Exakta Sport
この2機はいずれも上から覗くウエストレベルのファインダーで、左右が逆象となり、接写や複写など特殊な用途のほかは、非常に使いにくいカメラであった。

キネ・エクサクタ  (1936年)
Kine Exakta+Exaktar 54mm F3.5
そのキネ・エクサクタが我が家にやってきた。アメリカのメリーランドからはるばる海を越えて。とても75年前のカメラには見えない。クロームメッキの質が良いのだろうか、非常に美しい。重量は870gで手にずっしりと来る。世界初の35mmシネフィルムを使った一眼レフだ。

左手で巻き上げ、左手でシャッターを切る。ファインダーを畳んだままだと、シャッターが切れない。ウエストレベルのファインダーは小さく暗いので、老眼でのピント合わせは至難の業だ。しかも左右逆に映るので、構図を決めるのにも一苦労だ。これでは、複写などの特殊用途はともかく、とても普通の写真は撮れない。

でも、この化石のようなカメラを持って外に出ると、わくわくするような嬉しい気分になるのは何故だろう。技術の進歩と心の豊かさは、必ずしも比例しないなあと実感する時である。

このカメラ意外にも新機軸がいろいろある。フィルムのレバー巻き上げは世界初だし、レンズ交換は1/4回転でロックされるバヨネット式、シャッターも1/1000秒と高速だ。さらに12秒という超スローシャッターが切れる。

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ネコ人形 眼下の風景
標準のエクサクタールF3.5はいかにも暗い。無限遠はともかく、手持ちでのピント合わせは不可能に近い。やはり複写用だったのかなあ。

千葉公園の蓮池 大賀ハス
そこで、手持ちのビオター58mmF2を付けてみた。このレンズは自動絞り機構が付いているので、非常に使いやすい。キネエクサクタのファインダーは、見違えるように明るくなった。開園直後の千葉公園で、咲き始めた大賀ハスを狙ってみた。この組み合わせは実にいい。使いにくかったキネエクサクタが、見事によみがえった。これは使える。




通常のアイレベルで、普通に写真が撮れるようになるには、第2次世界大戦終結まで待たなければならなかった。ハンガリーのデュフレックス(1947)、イタリアのレクタフレックス(1949)などがその先駆けとなるのだが、東ドイツのコンタックスS(1949)が、本格的な35mm一眼レフ時代の幕を開けた。

Duflex Rectaflex Contax S
(ハンガリー) (イタリア) (東ドイツ)


世界の先陣を切った東ドイツ勢

ペンタプリズムを使ってアイレベルで正立正象を実現したコンタックスSは、東ドイツのツァイス・イコン社(正式には人民公社だが便宜上「社」と表現する)で誕生した。これに続いてKW社のプラクチカ、イハゲー社(イハゲー社は人民公社ではなかった)のエクサクタと東独勢が相次いで参入し、1950年代のペンタプリズム式一眼レフは、東ドイツの独壇場となった。

クラシックカメラのコレクターにとっては、東ドイツ製の一眼レフは悩ましい。歴史的価値や、作りの良さはさすがドイツ製だと思わせるのだが、いかんせん、シャッター幕が弱いのだ。私の手に入れたカメラは、どれも例外なくシャッター幕に問題があった。経年劣化していて光線漏れを起こすのだ。戦前のキネ・エクサクタは問題なかったのに、戦後のエクサクタには問題が生じている。コンタックスもプラクチナも同様だから、当時の東ドイツのシャッター幕の材質に問題があるのだろう。

コンタックス S  (1948年)
Contax S+Tessar50mm F2.8
現代の一眼レフ隆盛の先駆けとなったのは、東ドイツのツァイス・イコン社が世に送ったコンタックスSである。1948年にストックホルムの見本市に展示されたコンタックスSが、画期的だったのは、一眼レフとして世界で初めて、ペンタプリズムによるアイレベルでの正立正象ファインダーを実現していたことである。

ツァイス・イコン社によるペンタプリズムを応用した一眼レフの構想は、戦前の1936年に遡る。ジンタックス(Syntax)というコードネームで呼ばれたこのカメラは、1940年には縦走りシャッターのプロトタイプが完成している。戦争で一時中断するが、1946年にはシャッターを横走りに変えて、完全に作動する試作品が完成し、政府へ提出された。しかし、当時の東ドイツ政府の役人はぐずぐずしていて、量産許可をなかなか下ろさなかった。2年後にやっと見本市に出品、翌1949年にようやく発売にこぎつけた。

ツァイス・イコン社の記録によれば、コンタックスSの最終設計図が出来上がったのは、1945年8月15日、奇しくもドイツの同盟国日本が、無条件降伏した日のことであった。設計陣をリードしたのは、ジークフリート・ベーム(Siegfried Böhm)で、彼はのちにKW社へ移り、後出のプラクチナの設計を手がける。

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八ヶ岳の日の出 霧の蓼科


睡蓮 花のない菖蒲園
シャッターの構造は独特で、修理は大変難しい。シャッター幕が薄くなっているようで、時々、縦に光線を引いてしまう。歴史的カメラだが、かなり気難しい。

ある人の情報で、シャッター幕の簡単な補修法を教えてもらった。木工用の糊に墨汁を混ぜて、膜の薄くなっているところに塗ればいいと言うのだ。半信半疑で試してみた。びっくり、見事に治ってしまった。わざと明るいところにレンズを向けたが、光線は漏れていない。これは、良い方法だ。
都会のキバナコスモス 浜離宮にて



コンタックス S、Dのバイヤースブランド

東独ツァイス・イコンのコンタックスSは、冷戦下にもかかわらずアメリカに輸出され、ある程度の成功を収めたが、西独ツァイス・イコンとの特許紛争により、西側諸国ではペンタコンと名前を変えざるをえなくなった。もっとも、実際は厳密には守られなかったようで、コンタックスとペンタコンは混在している。

コンタックスSのアメリカでの販売はかなり苦戦したようで、1952年にはマイナーチェンジしたコンタックスDが発売されるが、コンタックスSの発売当初475ドルだった販売価格は次第に軟化し、コンタックスDの発売当時は239ドルと、半値近くに値崩れしてしまっていた。

在庫整理の一環でもあったのだろうか、1953年から56年にかけて、様々なブランドに名を変えたコンタックスDが現れる。コンソール、ヘキサコン、ベリコンなどがそれで、コンタックスDの正規販売網以外のチャンネルで、10%以上安価で提供された。
コンタックスDの変わり型
前左からペンタコンFM、コンタックスS、コンソール
後左:ヘキサコン、右:コンタックスD

ペンタとマウント一体型の前面カバーを取り替えることで、簡単に別ブランドになる。最後期にはノーブランドのカバーに、ブランド名を貼り付けるだけという安直なものも現れた。
簡単に取り替えられるフロントカバー 貼り付けただけのプレート
1956年にKW人民公社に統合され、新設計のペンタコンFが発売されると、ほどなくしてバイヤースブランドは姿を消す。ペンタコンFはファインダーにスプリットイメージが追加され、巻き上げ、巻き戻しのノブも大きくなって、使い勝手はかなり良くなった。
Pentacon FM+Biotar 58mm F2


エクサクタ VX Ⅱa  (1956年)
Exakta VX Ⅱa+Biotar 58mm F2
イハゲー社は東独ドレスデンにあったが、オランダ資本であったためにソ連による接収を免れ、人民公社化はされずにすんだ。もともと一眼レフでは先駆的メーカーであり、1950年にはコンタックス Sに続くペンタプリズム搭載の本格的一眼レフとして、エクサクタ バレックスを投入する。アメリカ市場ではVXシリーズとして好評を博した。

写真のカメラは1956年アメリカで発売されたエクサクタ VX Ⅱaである。左側に巻き上げレバーとシャッターがある独特な設計で、いかにもクラシック然とした風貌は、強烈な個性を放っている。

レンズの鏡胴下のレバーを回すことによって絞りが開放され、鏡胴上のシャッターレリーズボタンを押すと絞りが絞られ、シャッターが切れる。半自動絞りである。ミラーはクイックリターンではないので、シャッターを切るとファインダーはブラックアウトする。
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雨に濡れたバラ1 雨に濡れたバラ2
一眼レフお得意の近接撮影に威力を発揮する。上下像合致式のスプリットイメージは、ピントを合わせやすい。

纏の勢揃い 纏のお出まし
スナップもご覧の通りで、左手の操作に慣れれば、撮りやすいカメラだ。

アザミ ホタルブクロ
先幕が薄くなっていて、光線漏れを起こす。ピーカンの日は避けて、撮る寸前に巻き上げることでなんとか防げる。気難しいカメラだ。雨上がりの路傍の花は、このカメラのお得意の被写体である。


プラクチナ Ⅱa  (1958年)  
Praktiflex Praktina Ⅱa+Tessar 50mm F2.8 Praktica

KW社はカメラベルクシュテッテン(Kamera-Werkstätten)の略で、ドレスデンに古くからあるカメラメーカーである。

戦後はカメラベルク人民公社となり、1949年、普及版一眼レフのプラクチカを売り出して、大ヒットする。前年にプラクチフレックスが採用した42mm口径のレンズマウントを踏襲したが、この規格は、日本のペンタックスなど世界中のカメラが採用し、一眼レフレンズマウントの世界標準M42プラクチカマウントとして名を残している。

プラクチナはプラクチカの高級版である。透視ファインダーを装備しているのが特徴で、この当時はまだ一眼レフが珍しく、透視ファインダーを求める顧客のニーズが大きかったのだろう。1952年に市場に投入されたプラクチナは、交換レンズはもちろん、豊富なアクセサリーを用意したシステムカメラであった。市場の評価は高かったが、普及版のプラクチカに投資を集中させるために、FXとⅡaの2モデルを出しただけで、10年足らずで消えてしまった。

写真のカメラはプラクチナⅡaで、1958年に発売されたが、これがプラクチナシリーズの最終モデルとなる。FXとの違いはフィルムを巻き上げると、シャッターチャージと同時に絞りが開放になる自動絞りになったことで、プラクチナには結局、クイックリターンミラーは採用されなかった。KW社がクイックリターンミラーを採用するのは、1964年のプラクチカVFになってからである。
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ニワゼキショウ あやめ
このカメラも上下像合致式のスプリットイメージを持つ。ピントは合わせやすい。

チガヤ カワラナデシコ
ネコとオペマと ノラネコ

AJCCの先輩に手伝ってもらって(ほとんどお任せ(;。;))、シャッター幕の交換に挑戦した。2日がかりで完成した。裏蓋を開け、フィルムゲートを外し、幕を交換する。底蓋の貼り革を剥がし、ビスを外して底蓋を外し、シャッターを調整する。根気の要る仕事だ。

このカメラはプラクチカマウントの元祖KW社製なのに、何故か独自のスピゴットマウントである。レンズを回さずに、ボディー側のリングを回して脱着する。


レンズシャッター式一眼レフで逆転を狙う西ドイツ

東ドイツのペンタプリズム式一眼レフを猛烈に追い上げたのは、西ドイツに逃れてきたツァイス・イコンの技術者達であった。1953年、西ドイツのツァイス・イコンはレンズシャッター式の一眼レフ、コンタフレックスを発表した。フォーカルプレーン式に比べてコストが安く、小型化出来るのが特長で、大ヒット商品となった。

ただ、機構的には複雑にならざるを得ず、故障率が多かった。レンズ交換も出来ないので、普及機という位置づけに甘んじた。コンタフレックスの成功に刺激されて、レチナレフレックス、ベッサマチックなどが追随して、それなりの成功を収め、のちにはレンズ交換出来る機種も現れた。1963年にはフォクトレンダー社のウルトラマチックが、クイックリターンミラーを実現している。

コンタフレックス Ⅱ  (1954年)
Contaflex Ⅱ+Tessar 45mm F2.8
西独ツァイス・イコンのコンタフレックスは、1953年のⅠ型から1970年のS型まで13機種,130万台を送り出した。写真のカメラは1954年のコンタフレックスⅡで、遠くギリシャから送られてきた。レンズはテッサー、シャッターはシンクロコンパーでBから1/500まである。露出計を内蔵した最初のモデルで、57年経った今でも正確に動いている。

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浅草寺本堂 浅草寺からスカイツリーを望む


鐘ヶ淵駅前にて 江戸のクラゲ


江戸川にて1 江戸川にて2


レチナレフレックス Ⅲ  (1960年)
Retina ReflexⅢ+Xenar 45mm F2.8
コンタフレックスの成功で西ドイツのカメラメーカーは、続々とレンズシャッター式一眼レフに参入する。1956年にはドイツコダックがレチナレフレックスを投入した。写真のカメラは1960年発売のⅢ型である。デッケルマウントを採用して、レンズ全群交換が出来る。ファインダー内に露出計の指標が表示され、大変使いやすいカメラだ。

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新宿御苑にて 春の公園

遠足 3兄弟



新技術で躍り出た日本勢

先行する東西両ドイツ勢に待ったをかけたのは、極東の日本勢だった。最初は旭光学のアサヒフレックスだ。1954年に発売されたアサヒフレックスⅡBは、ウエストレベルファインダーながらクイックリターンミラーを搭載していた。シャッターの後膜が走りきると、ミラーが復元するクイックリターンミラーによって、それまでの一眼レフの欠点だったブラックアウトが無くなり、使い勝手は飛躍的に向上した。

Asahiflex Asahi Pentax Miranda T

1955年、出来たばかりのベンチャー企業オリオン精機は、日本初のペンタプリズム搭載のミランダTを発売した。東ドイツのコンタックスSに遅れること6年である。

1957年、旭光学はペンタプリズムを搭載し、クイックリターンミラーを装備したアサヒペンタックスを発売する。これで、アイレベルで正立正象、ブラックアウトしないファインダーを持つ、理想の一眼レフが誕生した。日本勢躍進の幕が切って落とされたのだ。

クイックリターンミラーは瞬時にミラーが復元するので、ファインダーがブラックアウトするのを回避できたが、絞りが絞られたままではやはりブラックアウトに近い状態になってしまう。1959年発売のズノーは、絞りも瞬時に解放に復元する完全自動絞りを実現させた。この技術は同じ年に発売されたキャノン、ニコンによって、さらに完成度が高められた。

1960年、コニカFSは世界で初めて、ユニット式のフォーカルプレーンシャッターコパル スクェアを搭載して登場した。これまで高度の技術を必要としたフォーカルプレーンシャッターが、専門メーカーが作るユニット化されたシャッターを組み込むだけで実現できるようになり、大幅なコストダウンが進み、レンズシャッター式一眼レフの存在価値を奪っていった。

次々に繰り出された日本メーカーの新技術に、東西両ドイツのカメラメーカーは防戦一方になり、やがて世界は日本の一眼レフに席巻されていく。


アサヒフレックスⅠA(1953年)
 Asahiflex ⅠA+Takumar 50mm F3.5

日本勢の先陣を切ったのはアサヒフレックスである。1952年、旭光学は日本初の35mm一眼レフカメラとして、アサヒフレックスを発売する。まだ、ファインダーはウエストレベル、ミラーもクイックリターンではなかった。翌1953年、シンクロ接点が2穴になり、レンズにプリセット絞りを採用した写真のⅠA型が発売される。

レンズマウントはφ37mmの独自のスクリューマウントである。今となってはまともに写る個体は少なく、このマウントで写真が撮れるレンズは、貴重なレンズだと言える。開放にしてピントを合わせ、プリセットしてある絞り値まで絞り込んで撮影するのだが、つい忘れて開放のまま撮影してしまう失敗を何度も繰り返した。

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 舎人ライナー  日本の風景

舎人ライナーは、日暮里から見沼親水公園までの新交通システムで、無人走行の軌道電車である。運転席が無いので、先頭車両の最前席に座ると楽しい。

右は普通の民家だが、花が一杯で少し奥には自動販売機があり、そして道路にはチリひとつ無い日本の日常風景である。

   
谷津バラ園にて 

シャープとは言えないが、まあ、良く写るレンズだと言えよう。接写は一眼レフの最大の楽しみだが、最短撮影距離が2.5mというのは、一眼レフのレンズとしては物足りない。

 
 
 Asahiflex ⅠA+Takumar 58mm F2.4

1954年に日本初のクイックリターンミラーを装備したⅡB型が発売されるが、同時に標準レンズとして58mm F2.4が発売される。 最短撮影距離は2mを切って多少進化した。

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菜の花とネモフィラ

2017年4月28日、ネモフィラが満開だと聞いてひたち海浜公園へ出掛けた。ゴールデンウイーク直前ではあったが、大勢の観光客がつめかけていた。午前中曇っていた空が、お昼頃から晴れてきて、青空が広がるとおー!と歓声を上げていた。

歌舞伎座 銀座にて

上の写真が何となくピントが甘いので、日曜日の歩行者天国を狙って、銀座へ出掛けた。こうしてみるとピントは甘くはない。


 アサヒフレックスⅡB(1954年)
 Asahiflex ⅡB+Takumar 58mm F2.4

1954年、アサヒフレックスはⅡB型を発売する。世界初クイックリターンミラーの搭載機である。シャッターは1/500まであるが、スローシャッターは無い。

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巣鴨庚申塚にて

ある日の巣鴨。庚申塚と都電荒川線の駅。レトロな風景は絶好の撮影スポットだ。

近接撮影

自宅の近所の春をマクロ撮影。何気ない風景も、拡大すると印象的な被写体が目の前に姿を現す。一眼レフの最大の長所である。ただ、まだ自動絞りではないので、せっかくのクイックリターンの長所は、生かされているとは言い難い。

AJCC春の撮影会(2017.05.28) 

全日本クラシックカメラクラブの春の撮影会は、上州の多古碑と八幡山古墳。30余名の会員が参加し、天気にも恵まれて楽しい一日を過ごした。 

   

アサヒフレックスⅡA(1955年)
 AsahiflexⅡA+Takumar 58mm F2.4

翌1955年、写真のアサヒフレックスⅡA型を発売。スローシャッターがついて、だいぶ使いやすくなってきた。

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浅草にて 夏の思い出

35mm判のウエストレベルファインダーは大変見にくい。とても実用にはならない。複写台に固定して資料などを撮影するだけなら、大いに威力を発揮したのだろうが、大衆には人気が無かった。

水陸両用バス スカイツリーから

ミランダ S (1958年)
 Miranda S+Miranda 50mm F2.8

日本初のペンタプリズム式一眼レフは、1955年に発売されたミランダTである。東京大学航空研究所の若き2人の研究生が、敗戦後飛行機の仕事が無くなり、好きなカメラを作り始めたのが始まりである。大塚新太郎荻原彰の2人が立ち上げたオリオン精機で作り始めた。今で言うベンチャー企業である。銀座の松島眼鏡店の協力で、ミランダTを世に送った。のちにリコーの販売網で日本国内に販売したが、むしろ輸出に力を入れて、アメリカで大ヒットした。レンズはズノー光学から供給を受けた。

1958年、クイックリターンミラーとスローシャッター、自動絞りを搭載したミランダBを発売する。しかし、販売価格は4万8千円と当時としては、かなり高額となってしまい苦戦を余儀なくされた。ちなみに翌年発売のニコンFは、4万4,200円であった。

そのミランダBから売り物のペンタプリズムを省き、クイックリターンミラーも省略し、さらにスローシャッターも省いてコストダウンを図った廉価版が、写真のミランダSだ。当時の市販価格はミランダBの半額であった。しかし、巻き上げがノブ式のミランダは流通数が少なく、現在ではかえってかなり高価で取引される。

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浜離宮にて

シャッターがおかしくて画面右半分が写っていない。それでも写っている箇所は、なかなかの写りだ。ウメハラカメラに持ち込んで、シャッター幕のテンションを調整してもらった。

   
 銀座にて  鉄砲津祭り

2017年5月3日、調整済みのミランダSを持って、銀座の歩行者天国へ繰り出した。今度はバッチリだ。銀座は外国語ばかりが飛び交う。

 
松の花 ギョイコウ

一眼レフお得意の接写はご覧の通り。ウエストレベルでの撮影は難しいが、35cmまで寄れるのは嬉しい。



ニコン F (1959年) 
 Nikon F+Nikkor S-auto50mm F1.4
1955年、ライカM3が発売される。それまで懸命にライカを追いかけてきた日本のカメラメーカーは、M3の完成度の高さに驚き、ライカ追従路線を変換せざるを得なくなった。一気に一眼レフカメラの開発に舵を切ったのである。

最初に世界の注目を集めたのが、ニコンFであった。アサヒフレックスが先鞭を付けたクイックリターンズノーが実用化した完全自動絞りなど一眼レフの最新技術を総動員して、プロユースにも十分耐えうる高級一眼レフを世に送ったのだ。

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藤とスカイツリー 亀戸天神

ツーショット2題


アサヒ ペンタックス SV  (1962年)  
Asahi Pentax SV+Super-Takumar 55mm F1.8
一眼レフの歴史で革命的だったのは、ペンタプリズムとクイックリターンミラーの登場であろう。ペンタプリズムによるアイレベルの正立正象ファインダーは、1949年のコンタックスSを初めとする東ドイツ勢が、世界をリードした。クイックリターンミラーは1954年、日本のアサヒフレックスによって、初めて実用化された。その革命的技術を合体させて、一眼レフを一段と飛躍させたのが、1957年のアサヒペンタックスであった。

写真のカメラは1962年のアサヒペンタックスSVである。ペンタプリズムとクイックリターンミラーに加え、完全自動絞りのスーパータクマーレンズ、セルフタイマーを備えた一眼レフの完成型である。日本のカメラが、ドイツ製に挑む先兵の役割を果たした。

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谷津バラ園 睡蓮
ヘラオオバコ ケキツネノボタン
老幼の風景 子供の散歩

ミランダ DR  (1962年)
Miranda DR+Soligor 50mm F1.9

写真のカメラは1962年のミランダDRで、輸出専用モデルであった。クイックリターンミラーを備え、完全自動絞りのソリゴールレンズをつけ、AIC(Allied inpex corporation)の全米の販売網で販売された。ペンタックスに比べ、ミラーショックの音が柔らかい。

巻き上げがノブだった最初期のT型やS型、フィルムカウンターと巻き上げレバーが一軸だったA、B、C型、カウンターとレバーが分離したD型などが初期モデルである。初期モデルはネームがMirandaと刻印され、F型以降のMIRANDA表記と区別される。

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箱根山 銀座にて
ソリゴールというレンズは、気持ちの良い写りを見せてくれる。シャープだが雰囲気のある描写である。

未央柳 日比谷公園のギガンチューム

ホコ天撮影会 銀座の風景
6月1日は写真の日だ。長崎の写真師上野彦馬が、日本で初めての写真を、薩摩藩主島津斉彬をモデルに撮影した日とされている。(あとで間違いとわかったが) AJCC(全日本クラシックカメラクラブ)は、毎年その日に一番近い日曜日に、銀座の歩行者天国で記念撮影会を催す。(2011.06.05)

ミランダにはあまり知られていない隠れた長所がある。それは、マウント面から撮像面までの、いわゆるフランジバックが、41.5mmと非常に短いことだ。従ってアダプターをはさめば、ほとんどすべての一眼レフ用のレンズが楽しめる。
Miranda DR+M42アダプター+Industar61L/Z
上の写真はM42のアダプターで、ロシアのインダスター61をミランダに付ける組み合わせだ。インダスター61は50mmレンズだが、30cmまで近寄れるマクロレンズである。点光源を撮ると、ボケが六芒星になるので有名だが、ここではミランダに付けて、路傍の花をアップで撮ってみた。
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花菖蒲 未央柳
ほとんどが露出オーバーになってしまった。雨上がりだから、暗いと思ったのだけれど、案外早いシャッターを切った方が良いのかもしれない。

姫女苑 八重の立葵
姫女苑は春紫苑と見分けるのは難しいが、姫女苑は春紫苑より2週間ほど遅く咲く。蕾があまり垂れないで、しゃんとしているのが姫女苑だ。立ち葵は八重に咲くのは珍しい。

アジサイ アザミ
2目盛りほど絞って撮ってみた。これで適正露出だ。カメラのシャッタースピードが遅いのか、私の露出計が狂っているのか不明である。

家の近くの路傍の花だが、こういう被写体はレンジファインダーでは、ライカやコンタックスといえども撮るのは難しい。一眼レフがもっとも強みを発揮するターゲットである。もっともこのロシアレンズは、自動絞りではなくプリセット絞りなので、解放でピントを合わせ、絞りを絞ってから、シャッターを切るというややこしい手順を踏まねばならない。ピンぼけやら手ぶれやら、なかなか満足すべき写真が撮れない。じゃじゃ馬を馴らしているようなもので、苦労はするがそこがまた面白い。


コニカ FP  (1962年)  
Konica FP+Hexanon 52mm F1.8

コニカは老舗小西六が世に問うた、意欲的な一眼レフである。ミランダやペンタックスのように派手ではないが、確実に歴史を一歩前へ進めたカメラである。コニカは、初めてユニット式のフォーカルプレーンシャッターを組み込んだことで、一眼レフの世界を大きく変革したのだ。それまで、構造が複雑で、一部の高級機メーカーしか搭載出来なかったフォーカルプレーンシャッターを、シャッター専門メーカーからユニットで購入、大幅なコストダウンを実現したからである。

一眼レフには、ミラーの後ろで制御出来るフォーカルプレーンシャッターが、圧倒的に有利である。しかし、ボディーに一体で組み込まなくてはならず、その生産は非常に難易度が高く、どうしても高価にならざるをえなかった。

そこで、コンタフレックスのようにレンズシャッター式の一眼レフが現れた。いわば苦肉の策で、どう考えても機構的に無理があり、クイックリターンミラー、レンズ交換などの機能を組み込むのは極めて難しかった。

コニカが実現したフォーカルプレーンシャッターのユニット化は、本格的一眼レフの価格を大幅に引き下げることを可能にした。その意味で革命的とも言えるカメラなのだ。

Copal Square
コニカに搭載されたシャッターユニットは、茶谷薫重(ちゃたにくんじゅ)が開発し、シャッター専門メーカーコパルが生産した縦走り金属幕フォーカルプレーンシャッター、コパルスクエアである。このシャッターはコニカに続いて、ペンタックス、キャノン、ニコンなど日本各社の一眼レフに採用され、日本の一眼レフ躍進の原動力となった。

これにより、もともと無理があったレンズシャッター式一眼レフは、市場から姿を消すことになる。縦走りフォーカルプレーンシャッターは、コパルに続きセイコーでも供給が始まり、次第に改良されて小型化され、現在のデジタルカメラに継承されている。日本のカメラが、世界制覇を果たした陰の立て役者でもあるのだ。
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静物 晩夏の木の実

蓼科山と白樺湖 オレンジ色のカボチャ

ビル上の稲荷 モード学園

ペンタックス SP (1964年) 
 Pentax SP+Super-Takumar 55mm F1.8

常に国産一眼レフの先頭を走ってきたペンタックスは、このSP型で頂点に達する。レンズを通して適正露出を測るTTL測光は、世界的に大好評を博し、10年間のロングセラーを記録、200万台以上が販売されたという大ヒット商品になる。
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丸の内にて

コントラストの強い被写体は、適正露出を得るのが難しいが、TTL測光のペンタックスSPはいとも簡単にそれをやってのける。

修禅寺寒桜  ヒマラヤ緋桜
キャノン ペリックス (1965年) 
 Canon Pellix+Canon 50mm F1.8
ペンタックスやニコンに後れを取っていたキャノンは、1971年のF-1で反転攻勢に出るが、それまでは試行錯誤を繰り返していた。このペリックスは、その苦悩の中から生まれたユニークなカメラである。

最大の特徴は、一眼レフ特有の跳ね上がるミラーが無いことである。ペリクルミラーと称する半透明のフィルムをミラー代わりにして、可動ミラーを無くしてしまったのだ。TTL測光の受光部は、シャッター面直前に置かれるので、絶対測光とも呼ばれた。

 
 シャッター面に立ち上がる受光部
   
普通の一眼レフ ペリックス
ミラーが動かないので、スローシャッター時にもファインダーから像が消えない。クイックリターン機構が不要なので、構造がシンプルで、ミラーショックも無い。

良いことずくめのようだが、重大な欠点があった。半透明膜によって透過光は、30%がピント面からファインダーに、70%はそのまま撮像面に届くのだが、そのためファインダーは暗く、ピントが合わせにくい。画期的な機構を持ったこのカメラが、意外に市場に受け入れられなかったのは、そのあたりにありそうだ。

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巣鴨にて
ファインダーは暗いが、ピントは合わせやすい方だ。なによりミラーショックが無いことが、実に気持ちが良い。シャ!という軽快なシャッター音は、ミラーショックを伴う他の一眼レフとは明らかに一線を画している。

新宿にて 
ただ暗い被写体は苦労する。やはりファインダーが暗いのはストレスを感じる。そのため、キャノンはこのカメラのために、F1.2のレンズを用意したという。

 
 
 Canon Pllix+Canon FL 58mm F1.2
思い切ってF1.2を手に入れた。さすがにファインダーは明るく見やすくなった。ただ、レンズのみの重量が410g、このレンズを付けた総重量は、1,120gとかなりの重さになる。
 
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江戸川にて
パンパスグラス 船橋駅

番外 ミノルタ α7000  (1985年)  
Minolta α7000+Minolta AF Zoom35-70
このカメラはクラシックカメラとは言えない。しかし、一眼レフを語る上で、どうしても外せない機種なのだ。それは、世界で初めて、実用になる自動焦点(オートフォーカス)機構を搭載したカメラだからだ。このカメラの前にも、先駆的なAFカメラはあるにはあったが、とても実用になるものではなかった。このα7000で初めてオートフォーカス(AF)が、実用レベルになったのだ。業界では「アルファーショック」と言われるほどの衝撃が走った。この年から約1年足らずの間に、ほとんどすべての一眼レフが、AF機能を搭載したことからも、その影響力の大きさがわかるであろう。

爆発的ヒット商品となったので、今では希少価値はゼロ。中古カメラ屋のジャンクコーナーに、乱雑に積まれている。しかし、作りはしっかりしていて、完動品も珍しくない。私もネットオークションで手に入れたが、送料の方が高いぐらいだった。フィルムを入れて撮ってみると、いわゆるクラシックカメラとは次元が違う。フィルム装填も自動、露出も自動、ピント合わせも自動、巻き戻しまで自動だ。ダイヤルやノブの代わりに、至る所にスイッチがある。撮れた写真は露出も適正、ピントもばっちりで良い出来であった。

このカメラで写真を撮っていて考えた。技術の進歩は、人から写真を撮る楽しみを奪ってきたのではないかと。露出を決める楽しみを奪い、ピントを合わせる楽しみを奪い、とにかく、すべてをカメラ任せにしなさいという技術の神様の命令によって、人はすべての楽しみを奪われてしまったのだ。
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季節遅れの菖蒲園 江戸川の風景
ベンチにいる鳩 ネコ
アカツメクサ ヘメロカリス

このカメラの登場からすでに4半世紀、現代はデジタルカメラ一色である。技術の神様は情け容赦もなく、フィルムを装填する楽しみ、現像の出来上がりをわくわくしながら待つ楽しみ、ピンぼけや露出の失敗作を嘆き、次こそはと腕を磨く楽しみを次々に奪っていった。

私達クラシックカメラ倶楽部の平均年齢も70歳を超えた。折しも今年は福島原発の事故で、技術の進歩にちょっと疑問符がついたが、おそらく、人間の社会は便利さ、快適さには逆らえず、さらにさらに技術の神様に翻弄され続けるのだろう。

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