クラシックカメラ銘々伝
日の丸コンタックス レチナ賛歌 愛しのコニレット 孤独なライカ テッシナの秘密 ミノックス秘話 ニコン神話  I love EXA 
   

ニコン神話

日本光学は戦前は、主として海軍に測距儀や双眼鏡を納めていた軍需企業であった。もともと海軍の肝いりで東京計器、岩城硝子、藤井レンズが合同して出来た会社なのだ。戦艦大和の巨大な測距儀も日本光学製だ。片手間にキャノンの精機光学へニッコールレンズを供給していた。

昭和20年の敗戦で軍需品は壊滅し、2万5千人いた従業員の90%は解雇された。それでもこの会社の高い技術力をなんとかして残そうと、平和品への転換プロジェクトが立ち上がった。平和品の候補としていろいろ挙がった中から、先にキャノンへレンズを納めていたこともあって、距離計連動式の35mm高級カメラを作ろうということになった。

機構はライカを手本にするのだが、永年のお得意先であったキャノンに遠慮して、外観とレンズマウントはコンタックス風にまとめられた。それでも設計に2年かかり、昭和23年になってようやくニコンⅠ型の販売にこぎ着けた。フィルムを節約するために24mm×32mmという画面サイズにした。ほとんどが駐留軍向けであって、日本国内には出回らなかった。

24×32というサイズは不評であった。アメリカで盛んだったスライドに合わないのだ。それで急遽設計変更して、24×34としてスライドマウントに合わせたのがM型である。さらにシンクロ接点を追加したS型を投入、昭和25年12月から日本国内でも販売を始めた。

Nikon S+Nikkor-S・C 5cm F1.4

さて、ニコン神話である。ライフの報道カメラマンであった三木淳が、1950年のある日、敗戦後の日本を紹介するためにライフから派遣されてきたデイビット・ダンカン(David Douglas Duncan)とコーヒーを飲んでいた。三木は戯れに自分のライカ3Cに、友人が持っていたニッコール85mmF2をつけてダンカンを写した。ダンカンは「Oh Japanese Sonnar?」と笑っていたが、その時はそれほど関心を示さなかった。ところが翌日、引き伸ばして彼に見せると、ダンカンはびっくりした。これがあの時のニッコールかと信じられない風であった。

ニッコール85mmF2で撮ったD.D.Duncan

三木はダンカンを連れて大井の日本光学をたずねた。出迎えた長岡正男社長は、投影検査室へ彼らを案内して、数本のニッコールレンズでチャートを投影して、解像度、収差などを確認させた。その優秀な値を目の当たりにして、ダンカンはびっくり、さらに自分のライツのレンズも試したが、ニッコールの数値がそれを上回ったのには信じられないという風情であった。彼はその場で数本のニッコールを買い求めた。

そんなことがあってすぐ、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。東京のタイム・ライフ支社は大忙しになった。カメラマン達は、朝鮮戦線で撮った写真を東京へ持ち帰り、三木達がそれを引き伸ばして、電送でニューヨークの本社に送る。1日の時差があるから、当日のニューヨークタイムス朝刊の1面を飾るのである。もちろんライフのクレジットを付けて。

 
LIFE誌1950年9月4日号 This is WAR! by David D Duncan 

タイム・ライフ本社から問い合わせがきた。このレンズはいつものレンズとは違って大変シャープだ。一体何を使っているのだと。ダンカンは日本のニッコールだと返信した。ニューヨークタイムスが12月10日号でそれを大々的に報じて、ニッコールは一躍世界の舞台に躍り出た。ニコン神話の始まりである。この時ダンカンはライカ3Cにニッコールを付けて撮ったのだが、彼に続くカメラマン達は争ってニコンSとニッコールを買い求め、さらに評判を確固たるものにしていく。

それまでは「安かろう、悪かろう」と言われたMade in Japanだったが、これを契機にそのイメージはがらっと変貌し、世界に冠たるMade in Japanとして羽ばたくのである。物作り日本の原点がここにある。


ニコンS+ニッコール S・C 5cm F1.4

NIKKOR-S.C 5cm F1.4 Nikon S+Nikkor 5cm F1.4

ゾナー型3群7枚構成。1951年の発売当時、世界最高のF値をうたい文句にした。それまでF1.5のゾナーで世界最高を誇っていたカール・ツァイスは、これに猛烈なクレームを付けた。実測の結果、F1.4は誇大表示であるというのだ。

当時の日本の規格は、F1.3104~F1.4896まではF1.4と表記して良いということになっていた。中立のキャノンの測定によると、ニッコールF1.4とゾナーF1.5との差は、わずか0.04であったという。まあ、いずれにしてもわずか0.1の差を大騒ぎした記念すべき(?)レンズなのである。

(クリックすると大きくなります。)
東京駅 法華経寺

荒行堂 荒行堂

機嫌の悪い猫 眠り猫

ニコンS+ジュピター12 35mm F2.8

旧ソ連製のレンズである。ソ連版コンタックスのキエフに用意された広角レンズで、大きく飛び出した後ろ玉に、ちょっとびびる。カール・ツァイスの銘玉ビオゴンのデッドコピーだという。ただ、ビオゴンは後ろ玉にカバーが付くが、ジュピターは剥き出しだから、ちょっと怖いのである。おそるおそるニコンに付けてみた。無限遠に合わせて慎重に付ける。心配した後ろ玉の干渉もなく、すんなり収まる。オリンパスのファインダーを付けて早速試写に出かけた。

Jupiter12 35mm F2.8 NikonS+Jupiter12

コンタックスとニコンは同じバヨネット式のマウントだが、規格に僅かな違いがある。フランジバックが違うという説と、ヘリコイドの回転角が違うという説があるが、私にはよくわからない。ただ、標準や望遠レンズを使う場合は問題になるが、広角レンズなら被写界深度でカバー出来る範囲内だ。

(クリックすると大きくなります。)
浅草の芝居小屋 たわしの動物
東京駅 東京駅
荒行堂 塔の上の雲


 ニコンFの新伝説
 
ニコンはS型、S2型、SP型と進歩を遂げながら、世界に誇る高級機として、その地歩を固めてきた。1959年、ニコンは一眼レフのF型を発表して、大きく飛躍する。

そしてまたもや伝説が生まれた。1964年の東京オリンピック。ニコンFはプロカメラマンの世界で、圧倒的な支持を受けるのである。 報道写真の現場で、それまで大きなシェアを占めていたライカやスピグラなどのプロ用カメラが、一眼レフ、それもニコンFによって完全に駆逐されてしまったのである。

ニコンFに400mm、600mm、1000mm、1200mmという超望遠レンズをつけて、アスリートを狙う日本人カメラマンの砲列に、海外のメディアはびっくり、グラウンドならぬカメラマン席に驚嘆のレンズを向けたのであった。

ニコンFに超望遠レンズをつけたカメラマン席
巨大なレンズはレフレックスニッコール1000mm
(光とミクロとともに-ニコン75年史)

実際、海外メディアのカメラマンたちは、東京に手ぶらで来て、東京でニコンとニッコールを買って、オリンピックのグラウンドへ馳せ参じたという。ニコンの新伝説の始まりである。
 

ニコンF+ニッコール50mm F2

 
 Nikon F+NIKKOR 50mm F2
 
ニッコール50mmF2は、ニコンFの普及版標準レンズである。何度か改良を加えられたが、4群6枚のガウスタイプの構成は不変である。(初代だけ7枚)。写真のレンズは1974年に発売されたニューニッコールで、最短撮影距離が0.6mから0.45mに変更された。
(クリックすると大きくなります。) 
   
 江戸川河川敷  石灯籠
シャープさは高級版のF1.4を凌ぐと評され、プロカメラマンにも愛用者が多い。 


 ニコンF+ニッコール-S オート50mm F1.4
 
 Nikon F+Nikkor-S auto 50mm F1.4

ニッコールの代名詞でもある50mmF1.4は、レンジファインダー時代から世界中のプロカメラマンに愛され続けてきた名玉である。 解放時の柔らかい描写は、このレンズ独特のもので、絞ればキリリとシャープさを増す。
 (クリックすると大きくなります。)
   
 藤とスカイツリー  亀戸の藤
   
   
   亀戸天神
 

 
ニコンF+マイクロ ニッコール55mm F3.5 
 
Nikon F+Micro-NIKKOR auto 55mm F3.5 
 
伝説の名玉である。東大の小穴純教授から、近接撮影で漢字が識別できるレンズを依頼されたことに始まる。それまでの近接撮影用レンズは、アルファベットのが識別できればOKとされた。ところが漢字は字画が多く、遙かに高い解像度を要求する。ドイツにもアメリカにも無い性能だった。模倣するお手本は無かった。何度も試行錯誤が繰り返され、1956年にS型用のマイクロニッコールが誕生する。

小穴教授はこのマイクロニッコールで撮った樋口一葉の「たけくらべ」全文70ページを、はがき大のシート状マイクロフィルム(micro fiche)1枚に収めて、世界を驚嘆させた。
 
 micro fiche

写真のレンズは1963年に発売されたオート55mmF3.5で、一眼レフ用にS型用のバックフォーカスを長くし、自動絞り機構を備えたレンズで、後継のF2.8が発売されるまで19年間製造された。
 
(クリックすると大きくなります。) 
   
 冬のネコ  アップで
   
 
 大島桜  染井吉野

今年(2013年)の桜は例年より10日も早く咲いて関係者を慌てさせたが、咲いてから低温が続いたので、かなり長期間花が散らずに楽しめた。4月1日の新宿御苑は良く晴れて各種の桜が美しかった。

 
   
 大島桜 一葉 

せっかくのマクロレンズなので、近接撮影を試みた。老眼なのでピントを合わせるのが苦手なのだが、まあ、なんとかモノになったと思う。 
   

ニコンFのデザイン 

ニコンFを語る時に亀倉雄策を語らなければならない。彼は新進気鋭のグラフィックデザイナーとして、永井一正らと日本デザインセンターを設立することになるのだが、その前の一時期、日本光学のニコンS型やS2型などの取扱説明書のデザインを担当していた。

ニコンFは亀倉が手がけた傑作なのである。設計はニコンSPを土台にしているのだが、見た目の印象はSPとは全く違っている。派手でけばけばしかったSPに比べて、直線を主テーマにしたストイックなデザインは、洗練された機能美を誇っている。木村伊兵衛に亡者の三角巾と揶揄されたが、どうしてどうして私などには大変好ましい三角に思える。中古市場でも富士山ニコンと言って特別扱いするくらいだ。

亀倉雄策の作品を紹介しておこう。彼の名は知らなくても、彼のデザインは誰もが見たことがあるはずだ。

   
 東京五輪ポスター  ニコンのロゴマーク

映画とニコン

神話や伝説が流布されると、次は映画だ。ニコンは銀幕に次々に登場するようになる。代表的な作品をご紹介する。

上流社会(1956年)

後にモナコ王妃になるグレースケリー最後のハリウッド映画だ。ルイ・アームストロングの軽妙なオープニングが印象的な、ミュージカル映画である。グレース・ケリーにビング・クロスビー、フランク・シナトラという豪華キャストだった。

ニコンS2は映画の冒頭に登場する。上流社会の結婚式の取材に訪れたゴシップ誌の記者フランク・シナトラと、女性カメラマンのセレステ・ホルムが花嫁役のグレース・ケリーに初めて会うシーンで、カメラマンが構えるカメラがニコンS2なのである。

(クリックすると大きくなります。)
 取材するシナトラとセレステ・ホルム
 欲望(1966年)

名匠ミケランジェロ・アントニオーニ監督のイギリス・イタリア合作映画である。ロンドンの人気カメラマンが、なにげなく撮った写真が巻き起こす、スリルとサスペンスに溢れたミステリー映画である。重要なシーンに必ず登場するのはニコンFだ。ニコンFがこの映画の主役であると言っても良いだろう。

(クリックすると大きくなります。) 
   
 何気なく撮ったのだが  ポスターになった有名なシーン



クラシックカメラの物語