邪馬台国は出雲にあった!!??
(奇跡の遺跡 荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡)2007.05.20


邪馬台国はどこにあったか。近畿説、九州説など100年以上の論争が続き、未だ決着が付いていない。専門の歴史学者や考古学者はもとより、小説家、郷土史家、さらには歴史好きな一般人まで参加して、論争はとどまる所を知らない。私の尊敬する畏友井上修一氏もそうしたサラリーマン史家だが、そのホームページ「邪馬台国大研究」は膨大な資料を駆使した本格的なモノで、私などはとても足元にも及ばない。ぜひ一読をお奨めする。

しかし、まだ決定的な証拠が出てきていないことは確かで、一笑に付されるのを覚悟で、私も遅ればせながら邪馬台国論争に参加してみることにする。

わたしの結論はずばり、「邪馬台国」は出雲にあった」とこうである。近畿でも九州でもないところに、この新説(珍説?)の価値がある。

景初三年の銘がある三角縁神獣鏡
上は島根県雲南市加茂町の、神原神社の境内から発掘された三角縁神獣鏡である。三角縁神獣鏡は日本国内で470面見つかっているが、景初3年の銘があるものは、これ1枚のみである。翌年の正治元年の銘を持つものは、山口、兵庫、群馬から3面見つかっている。いずれも中国のの年号で、西暦239年、240年ということになる。後漢が滅んで晋によって統一されるまでの魏、呉、蜀のいわゆる3国鼎立時代である。

魏志倭人伝によると、景初2年(238)に倭の女王卑弥呼が帯方郡の太守を仲介にして、朝貢の使者を魏の明帝に送った。明帝はよろこび親魏倭王に叙し、金印紫綬とともに銅鏡100枚を贈ったという。

ここで、この景初2年という年号が問題となる。日本書紀にはこの卑弥呼の遣使を景初3年(239)とする。中国の史書梁書も景初3年とする。なぜか。日本書紀や梁書の著者は、魏志の間違いに気づいていたのだ。当時、魏は東方の燕王公孫淵と対立していて、東方との交流を断たれていた。魏の将軍司馬懿が公孫淵を殺すのが景初2年8月23日である。従って、倭人伝が、卑弥呼の使者が、景初2年6月に帯方郡の太守に会って、魏の天子へ朝貢したいと伝えたというのは、矛盾しているわけだ。

魏志倭人伝は、この記事に続けて次のような史実を載せる。
正治元年(240)、帯方郡の太守が使者を倭王に送り、魏の少帝の詔書、印綬を奉じたとある。さらに正治4年(244)、倭王は使者を送り、生口、倭錦、弓矢などを上献したとある。その時の使者の名を伊声耆と伝える。

景初3年の銘を持つ三角縁神獣鏡は、景初3年に朝貢した卑弥呼の使者が持ち帰ったか、正治元年に魏の使者がもたらしたと考えられる。その返礼に魏に遣わした倭王の使者は、伊声耆(イセギ)と言った。いまでも、出雲地方には伊佐我命を祀った伊佐我神社、伊佐波神社が多くある。出雲国造の祖だといわれる。伊声耆伊佐我と同一人物ではないか。

景初3年の銘を持つ三角縁神獣鏡が、出雲からしか出土しないこと、出雲に関係深い伊声耆を使者として魏に派遣していることなどから、「邪馬台国は出雲である」と言いたいのだがどうであろうか。

それはそうと、卑弥呼が活躍するのは3世紀だが、秦の始皇帝が中国を統一した紀元前3世紀頃から、日本は弥生時代にはいる。それから漢が滅んで三国時代が始まる紀元3世紀までの約600年間が弥生時代だということになる。弥生時代の日本は、吉野ヶ里で代表される北九州、大量の銅鐸が発見された近畿が文化の先端地域であったが、それに勝るとも劣らない地域が出雲であった。つまり、邪馬台国に卑弥呼が現れる3世紀の頃は、出雲に強大な文化圏があったのだ。斐伊川の流域に広がる西出雲地方である。

と、ここまでは7年前の私の珍説だが、2014年の今日、すでに撤回せざるを得ない状況になっている。 三角縁神獣鏡が卑弥呼に贈られた鏡でないことが、ほぼ確実になってきたからだ。うーん、残念。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡でないとすると、私の説は成り立たないのだが、それでも邪馬台国出雲説は、あり得る話だと思うので、もう少し勉強してみたい。


斐伊川流域に広がる弥生遺跡


荒神谷遺跡(358本の銅剣の謎)
一級河川斐伊川は船通山を発して北に流れ、加茂町に入るあたりから川幅を広げ、仏経山を西に迂回しながら宍道湖に注ぐ。その斐伊川と仏経山を挟んで反対側、斐川町神庭西谷という山間に、三宝荒神という小さな祠があった。人里離れた淋しい山の斜面に、どうしてその祠は祀られたのだろうか。

昭和58年(1983)、道路工事のための事前調査で、その謎が解けた。荒神の祠のすぐ手前で、1片の須恵器のかけらが見つかったのだ。日本の弥生時代史を書き換える大発見の先触れだった。翌59年には谷間の斜面から、なんと358本の銅剣がまとまって出土した。それまで日本全国で出土した銅剣は約300本だったから、ここ1カ所でそれをはるかに上回ってしまったのである。

驚きはそればかりではなかった。翌60年には、銅剣の出土地からわずか7M離れた所から、とんでもないモノが出てきたのだ。なんと、16本の銅矛6個の銅鐸が同じ場所から出てきたのだ。日本の歴史学会、考古学会は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

我々が学校で習った日本史では、銅矛は北九州銅鐸は近畿と文化圏がはっきり分かれているとされてきたではないか。それが、銅矛と銅鐸が同じところから出てくるなんて、それこそ天地がひっくり返ってしまう、まさに驚天動地の大発見だったのである。

荒神谷博物館
山間の専用駐車場からしばらく歩くと、この博物館に出会う。荒神谷遺跡の発掘の様子から、出土品の展示まで、視聴覚等を使って行き届いた説明がなされる。実物大の銅剣を持ち上げてみた。ものすごい重さだ。とても戦いには使えないと思った。


荒神谷遺跡
ここから358本の銅剣、16本の銅矛、6個の銅鐸が出てきた。
380点すべてが国宝に指定されている。


358本の銅剣
このような状態で埋まっていた。いったい誰が何のために埋めたのだろうか。


銅剣
出来たての銅剣は黄金色に光っている。
長いものは54cm、短いもので48cm。
重さは500g以上。成分は銅85、錫10、鉛5の割合。
謎の×印
358本の内344本に「×」印が
刻まれていた。加茂岩倉遺跡の
出土品にもあったが、謎である。

16本の銅矛と6個の銅鐸
日本の弥生史を書き換えた銅鐸と銅矛は、寄り添うように眠っていた。


銅矛
銅矛は長く重い。長いものは84cm、短いものでも67cmもある。
重さは、重いもので1900g。とても片手では持てない。

右は矛の先端部分だが、研磨角度を変えて綾杉状の文様を
浮かばせている。これは、佐賀平野に出土する銅矛の特徴で
北九州から出雲へ運ばれてきたものだろうという。

加茂岩倉遺跡(39個の銅鐸の謎)

荒神谷の大発見から13年経った平成8年(1996)、またしても出雲が脚光を浴びる。荒神谷遺跡から北へわずか3.3キロ離れた加茂町岩倉地区から、39個という大量の銅鐸が出てきたのだ。これまで1カ所から出土した例では、滋賀県大岩山遺跡の24個が最大であったが、加茂岩倉はあっさりと記録を書き換えてしまった。

加茂岩倉遺跡
ウグイスの声を聞きながら20分ほど歩いてやっと着いた。小高い崖の斜面から出てきたという。見学用の木組みの通路が整備されている。この遺跡全体を見渡せるように資料館が建っていた。


出土状況
平成8年10月14日午前11時半、農道建設現場で作業していた重機のバケットに6個の銅鐸が入っていた。大発見は偶然に始まった。連絡を受けた加茂町教育委員会はすぐ現地へ急行、1時間半後には速水町長も駆けつけ、工事の中断を即決した。


入れ子になって
発見された銅鐸は、大きい銅鐸の中へ小さい銅鐸を入れた入れ子の状態で出てきた。


加茂岩倉遺跡出土の銅鐸
39個の大量出土は我が国に例を見ない。荒神谷の358本の銅剣もそうだが、
出雲の埋蔵品は大量出土で驚かされる。和歌山、兵庫、徳島、奈良などから
出土した銅鐸と同笵のものが多く、各地と交流があったことを思わせる。

右は釣り手の部分に刻まれた「×」印。この刻印のあるものが数点あった。
荒神谷の銅剣の柄の刻印と同じだ。この二つの遺跡を結ぶ謎の手がかりである。

出雲国風土記にいう。

神原の里。郡家こおりのみやけの正北九里。古老ふるきおきなの伝えて曰わく、
あめ
の下所造つくらしし大神おほかみ神御財かむみたから、積み置き給ひし處なり。すなわ神財かむたからの郷とふべきを、今の人なほ誤りて、神原かむはらの郷と云ふのみ


大原郡神原郷の起源説話である。風土記が編まれた7世紀には、神の宝物を埋めた所という伝承が残っていたのである。2千年の歳月を経て、現代に姿を現した神の宝は、我々に何を伝えているのであろうか。

平成20年(2008)3月、39個の銅鐸すべてが国宝に指定された。

古代出雲歴史博物館

2007年3月にオープンした。出雲大社の隣接地に広大な敷地を有する博物館だ。先ず正面玄関を入ると、出雲大社出土の巨大な宇豆柱が目に飛び込んでくる。出雲大社の模型を眺めて、次の部屋に入るとびっくりした。壁一面に荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣が、ずらーっと並んでいる。これは壮観である。加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸も一堂に会している。

休刊日は毎月第三火曜日。開館時間は9時から18時まで。


稲佐の浜(国譲りの舞台)

稲佐の浜である。出雲の大王大国主神が、高天原からの武甕槌命経津主命に迫られ
国譲りに同意したと伝えられる浜である。さしもの強大を誇った出雲王国も、大和朝廷の
傘下に入らざるを得なかった。出雲王国終焉の地である。


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