14.出雲国 島根県松江市  JR山陰本線松江駅  97.10.22



中学時代の担任、水野三郎先生ご夫妻を松江に訪ねた。水野先生は松江に生まれ
東京の大学を卒業され、教職に就かれた。その最初に担任された生徒が我々である。
思えばあれから45年の歳月が流れたわけであるが、その歳月を全く感じない。ちょうど
我々と12歳、一回り違うわけだから今年で70歳になられるはずだが、バレーで鍛えた
身体はいたって健康。最愛のみどり夫人と、悠々たる人生を楽しんでおられる。

久しぶりの恩師は元気いっぱい、奥様とともに出雲国風土記を片手に、古代神話の世界
出雲国をご案内いただいた。



意宇(おう)の杜


出雲国はここから始まる。

八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)
が、出雲の国は小さい国だ。余った国を
引き寄せて、大きくしようと言われ
朝鮮半島あたりから、四っつの島を引き
寄せられ、島根半島を造られた。

最後に「おう、やれやれ」と言われて、
持っていた杖を道ばたに突き、休まれた。
その杖から根が出てこの杜になったという。

出雲国風土記「国引き」

意宇と号(なづ)くる所以は、国引きましし八束水臣津野命、詔りたまいしく、
「八雲立つ出雲国は、狭布(さぬ)の幼国(わかくに)なるかも。初国小さく作らせり。
 故、作り縫はな。」と、詔りたまひて、
「たくぶすま志羅紀(しらき)の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり。」(..中略.)

河船の毛曽呂毛曽呂(もそろもそろ)に、「国来(くにこ)、国来」と引き来縫える国は、(..中略)
八穂米(やほしね)支豆支(杵築)の御崎なり。(.........中略.........)

「今は、国引き訖(お)えつ。」と、詔りたまひて、意宇の杜に御杖衝き立てて、「意恵(おえ)」と、詔りたまひき。故、意宇と云ふ。



出雲国庁跡

昭和43年から3年間のわたって発掘された。溝によって囲まれた敷地内に、政庁跡、後方官衙の
建物跡が並ぶ。菅原道真の父 菅原是善、万葉歌人 門部王(かどべのおおきみ)などが、ここで
政務を執った。


国庁の後方官衙の跡。

後ろは風土記の中で神名樋野
(かんなびぬ)と記された茶臼山。

政庁跡の説明版と水野三郎先生。

この西隣に、出雲の総社である六所
神社がある。国庁と総社が不即不離
の関係にあったらしい。

万葉歌人門部王も、出雲の国司をつ
とめた。720年頃から730年頃にかけ
てと云われている。

出雲守 門部王 京を思ふ歌

飫宇(おう)の海の 河原の千鳥 
        汝が鳴けば 我が佐保川の
                  念(おも)ほゆらくに

承和年間の出雲守菅原是善は八束郡菅原の里の乙女を愛した。
是善が帰京後、この乙女は男の子を出産した。
この御子が、後の菅原道真であるという。承和12年(845)のことであった。



出雲国総社 六所神社

鳥居

国庁の西に接して六所神社がある。
出雲国の総社である。


比較的小じんまりとしている。

「額田部臣」の銘のある岡田山
古墳出土の、円頭太刀は一時
この宮に預けられていたという。


本殿

祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊
天照大神、月夜見命、素戔嗚尊
大巳貴命の六柱。




十字街(ちまた)


国庁から北へ上り、東へ一筋でこの十字路に出る。

出雲国風土記に次のような記事がある。

国の東の堺より、西に去(ゆ)くこと二十里一百
八十歩にして、野城橋に至る。(...中略...)
又、西二十一里にして、国庁(くにのまつりごとの
みや)、意宇郡家の北なる十字街(ちまた)に
至り、即ち分かれて、二つの道となる。一つは
正西道(まにしのみち)、一つは、枉北道(きた
にまがれるみち)なり。

風土記の記載どうりの交差点。
これはちょっと感動もの。

この道を北にたどれば隠岐に、西にたどれば石見国に至る。



出雲国分寺跡

十字街をさらに北へたどり、二筋ほど東へ行くと、国分寺跡へ出る。



国分寺跡は、南門、中門、金堂講堂、僧坊、回廊、七重塔などの基壇、礎石が
復元されている。


天平古道
国分寺から南へまっすぐに延びる道。

水田の下から、幅約6メートルの石敷き
の道が発見され、天平古道と名付けら
れた。

現在は、その史跡の上を土で覆い、農
道として利用している。道の両側には、
コスモスが満開であった。





神魂神社(かもすじんじゃ)


出雲国庁跡からほぼ真西にある。

この本殿は国宝である。

ここで、みどり夫人から先生の
出生の秘密を聞かされた。
これにはびっくりしたが、公開は
できない。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)を
祀る。本殿は日本最古の大社造り
で、国宝である。天正11年(1583)
の建造。


本殿内壁には、江戸時代作の8面の壁画がある。そのうちの一枚は、めづらしい祝い相撲の絵で
宮司さんのお話によると、出雲の二つの国造家が世継ぎの儀式のあとで、祝いに相撲を奉納した
という。ただし必ず引き分けになるのだそうな。

出雲国造は代々この神社の祭主を勤めたが、霊亀二年(716)出雲大社が創建されると、その祭
主として杵築へ移住した。しかし、国造就任の印綬とも云うべき神火相続式(おひつぎ)は、今でも
この神社で執り行われる。格式の高い神社である。


千木のこと

みどり夫人から、こんなことを教えていただいた。
神社の屋根の上のある千木についてである。




上の左の写真は女神伊弉冉尊を祀る神魂神社のもの、右は男神大国主命を祀る出雲大社のもの。
違いがおわかりだろうか。左は千木の真上が平らになっている女千木、右は垂直に切れた男千木。
祀ってある神によって、千木だけでなく内部の構造も違うのだそうだ。




国造家の墓所




出雲国造家は中世に分裂し、千家、北島家の両家に分かれた。ここに代々の国造が眠っている。
神魂神社東側の正林寺というお寺の裏にある。地元の人でも知らない秘密の場所。水野先生なら
ではの特別の史跡である。




八重垣神社

さらに西へ行くと八重垣神社へ出る。素戔嗚尊が大蛇退治の間、稲田姫(くしなだひめ)を隠した
所とされ、日本最初の和歌、

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

と歌われた所だという。祭神は稲田姫。


これはまあ、なんと立派なご神体。
八重垣神社は、縁結びの神様。

境内にある夫婦椿は、資生堂の花椿の
起源である。















岡田山古墳群

神魂神社から八重垣神社に向かう途中に、風土記の丘がある。岡田山古墳群があるところだ。


先生ご夫妻の後ろが岡田山古墳群だ。

六世紀末の古墳で、発掘された太刀の
刀身に、銀の象眼で「額田部臣」と刻ま
れているのがわかり、一躍有名になった。

額田部臣は出雲国風土記に登場する
一族で、臣というからには大和朝廷の
氏姓制度がすでに六世紀には、この
出雲の地まで及んでいた証拠なのだろ
うか。

風土記の編集から200年も前にである。








稲佐の浜(国譲りの地)

松江から車で1時間。出雲市に入る。出雲大社のある所だ。大社のすぐ近くに稲佐の浜がある。


大国主命が天照大神に
国譲りしたとされる浜。


23日の朝、先生ご夫妻と
この浜で朝御飯。

手作りのおにぎりと、卵焼き
奈良漬けとみそ汁、それに
焼き海苔の心づくし。


涙が出るほどにおいしく、
楽しいひとときであった。







古事記に

建御雷神(たけみかづちのかみ)、出雲国の伊那佐の小浜に降り到りて、十掬剱(とつかのつるぎ)
抜きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その剱の前に趺み坐して(あぐみまして)、その大国主神に
問ひてのりたまひしく、「天照大神、高木神の命もちて、問いに使わせり。汝がうしはける葦原中国
は、我が御子の知らす国ぞと言依(ことよ)さしたまひき。故、汝が心は如何に。」とのりたまひき。

この後、いろいろあって、最後に国譲りになる。

不思議なことにこの話は、出雲国風土記には記載がない。
それだけではない。古事記や日本書紀にある出雲神話は、因幡の白兎も、八俣大蛇も風土記には、
いっさい登場しない。逆に風土記にある国引き神話は、古事記、日本書紀ともに無視している。

素戔嗚尊は紀記では高天原を追放された荒ぶる神だが、出雲では情け深い優しい神だ。

大和朝廷と出雲国の微妙な関係が、こんな所からも浮かび上がってくる。



出雲大社(出雲一之宮)

杵築大社とも呼ばれる。
この宮を造営するために、高天原から
多くの神々がここに集まり、杵築き給わ
れた。と出雲国風土記は記す。

律令制度がようやく完成し、和銅元年
(708)には朝廷から、忌部首(いんべ
のおびと)が、出雲国司として意宇郡の
国府に派遣された。

国造出雲臣は、8世紀に国府のある意宇
郡からこちらに移り、出雲大社の祭祀
に専念するようになる。


筆者の左が、神様の宿泊所。

十月は全国的に神無月だが
ここ出雲だけは、逆に神在月
という。神様が全国から出雲に
集まるからだ。

十月十一日から十八日まで
ここにご滞在になるという。

これは、これは
巨大な注連縄。



宍道湖の夕日



こうして、出雲への旅は終わった。宍道湖の夕日がきれいだった。
水野先生、みどり夫人、二日間本当にありがとうございました。
すばらしい思い出になりました。どうか、いつまでもお元気で。




再会 2000年3月31日(金)

あれから3年があっという間に過ぎた。私も今年の誕生日で還暦だ。
松江へ行かないかと山本協子さんに誘われ、懐かしさのあまり仕事を
放り投げて来てしまった。水野先生は昨年2月肺ガンの手術をされ、
さらに8月には動脈瘤の大手術をされたと聞かされ、びっくりした。でも
久しぶりの恩師は元気そのもの。懐かしい話に花が咲いた。


右が水野三郎先生、左がみどり夫人。




先生夫妻の左が赤木(旧姓柴田)純子さん




左は山本(旧姓青柳)協子さん、右は夫君眞司氏







出雲国



出雲国府周辺


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